子供と歩く大阪散歩ノート

マイコプラズマ肺炎だったチビ、
10日間のお薬も全て飲みきって無事終了しました♪

あとは、しつこい喘息ですが、
ほどなく回復するでしょう♪

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先日のお休みに、
元気になったチビを自転車の後ろに乗っけて、
久しぶりに大阪城までサイクリングに出かけました。

ここには大きな遊具とロング滑り台があるので、
チビにとっても超お気に入りポイントです。

久しぶりのお出かけで、
チャリの後ろの席で小躍りするチビ。

前回大阪城までチャリを走らせたのは天神祭りの時でしたが、
あれから3ヶ月しかたってないのに、ずいぶん重くなりました。

後ろで踊るたびにハンドル取られるし、重たい~~。

二人乗りでの遠出はそろそろ限界かも…、
嬉しいやら寂しいやら、フクザツな気分…(笑)。

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砲兵工廠で働いていたおじいちゃんの話

最近、おじいちゃんのことをよく思い出します。

おじいちゃんの誕生日が近かったからかもしれません。

亡くなって1年半になりますが、
(101歳の大往生でした)
最近になって、とてもおじいちゃんのことを懐かしく思います。

生きているときは、正直、
少々個性と我が強すぎる人だったので、
あまり仲がよくありませんでした(笑)。

でも、今にして思えば、
明治生まれの人というのは、そういうものなのかもしれません。

おじいちゃんは、戦争の時、
大阪砲兵工廠というところに配属されていました。

今の若い方はご存知ないかもしれませんが、
砲兵工廠というのは、武器などを作る軍事工場です。

今の大阪城公園周辺は、その跡地で
先日チビをつれてサイクリングに行った辺りは、
ちょうど砲兵工廠の跡地の一部になると思います。

砲兵工廠周辺は、大阪大空襲の際に、
何度も標的になり、たくさんの人が亡くなりました。

祖父は、最後の大空襲の時、
上官に呼び出されて、たまたま持ち場を離れられたことと、
出向いた先で、偉いさん専用の防空壕に入れてもらえたこと、
この2つのラッキーが重なって、
生き残ることができたそうです。

以上の話は、おじいちゃんから直接聞いた話ではありません。

死後、法事の時に親戚から聞きました。

我が強くて、おしゃべりで、
人をさえぎってまでベラベラしゃべる人でしたが、
生前、戦争の話はほとんどしませんでした。

当時たくさんの男性が戦地に赴いたのに、
自分は内地で働いていたこと、あと、
たまたま棚ボタなラッキーがあって、
職場の仲間がたくさん死んでしまったのに生き残ってしまったことが、
とても申し訳なく、いたたまれないことだったようです。
(これも親戚から聞きました。)

私が直接聞いたことがあるのは、
当時住んでいた枚方から毎日自転車で京橋まで通っていたこと(驚)、
「空襲が終わって職場があった場所に戻ると、
みんな死んでいて、誰が誰かわからなかった。」、
それだけ…。

自力で歩けなくなるまで毎年必ず、
京橋の慰霊祭に出向いていました。

戦争、というものに想いをはせるとき、
祖父は、第一線で働く兵隊さんになれなかった「無価値感」と、
たまたま生き残ってしまった「罪悪感」にさいなまれていたように思います。

あれほど好き放題生きたような人でも
「無価値観」と「罪悪感」を手放すことは
一生涯かかっても無理だったみたいで
一体どれほど衝撃的な体験だったんだろうと、思います。

でも、私の父は戦後生まれですので、
大空襲の時の棚ボタなラッキーで祖父が生きながらえてくれなければ、
父も私も、そしてチビも生まれていないわけで…。

ひ孫にあたるうちのチビや、同世代の子供たちが
楽しそうに公園で遊んでいるのは、今生きている人たち全員の
ご先祖様のおかげなんですよね。

よく、城はコワい、とか、古戦場はコワい、とかいいますが、
この場所で、未来を担う子供たちが元気に無邪気に遊ぶことで、
うちのおじいちゃんだけじゃなく、
すべての人のご先祖さまやあらゆる存在が喜んでくれていると、
私は思っています。

「今いる場所、環境で、元気に無邪気に精一杯遊ぶ♪」

これは、子供たちに言っているようで、
自分自身へのメッセージでもあります。

どんどん楽しんで、どんどん笑って、
どんどんいろんなことにチャレンジしようよ。

おじいちゃん、生きていてくれて
ありがとうね♪

●oo○ooo●  最後まで読んで下さりありがとうございます。  ●ooo○oo●
この記事が何かのお役に立てたら幸いです!

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